耳ラジブログ

お耳に優しいラジオのたいちのブログです!

イギリスの大宰相グラッドストンの半生 (第二話) 自由主義者としての出発点

・政治人生の始まり

グラッドストンはオックスフォードの学友であるリンカン伯爵の父、ニューカッスル公爵の支援を受けてニューアークという選挙区から出馬することになりました。ニューカッスル公爵は保守的な信念を強く持っている人物だったので、グラッドストンは自らの信念を変えさせられるのではないかと不安に感じました。父や学友のリンカン伯爵と相談を重ね、また父が選挙費用の半分を負担するということもあり、トーリー党(保守党)からグラッドストンは政治人生を歩み始めることになります。

 

ニューアーク選挙区ではグラッドストンを含めて三人の候補者がいましたが、最多得票によってグラッドストン1832年に下院議員となりました。

 

議会での処女演説では黒人奴隷の解放について言及します。グラッドストンの父が海外植民地で黒人奴隷を使用していたことから、彼は選挙活動中も含めて差別主義者と批判を受けたが、彼は「漸進的奴隷解放」を唱えることで反論した。漸進的解放とは植民地の奴隷を即刻解放することは暴動や白人への攻撃を誘発するとして、キリスト教の精神を養わせたのちに徐々に解放を進めるという考え方です。

 

グラッドストンはピール内閣で植民地大臣や陸軍大臣などを歴任し保守党内で実績を築いていきます。しかしピールが提出した穀物法という法律を巡って保守党は分断していきます。

 

グラッドストンはピール派として分裂した保守党内で重要な役割を演じますが、自由党ラッセル卿内閣が成立し結果的に下野します。グラッドストンはこの時期を政治的に中断された期間と表現している一方で、自由主義へと思想を傾斜させていきます。

 

1830年台のグラッドストン

自由主義者グラッドストンの誕生

 

グラッドストンはイギリス国王を頂点とする英国国教会についての考え方を変化させます。英国国教会ローマ・カトリック教会やそのほかのプロテスタントを差別することで英国内で特権を享受してきました。しかしその結果、国教会は腐敗や内部分裂といった形で弱体化を繰り返していく一方だったのです。

グラッドストンユダヤ教カトリックへの差別を撤廃することで宗教間の自由競争を促し、国教会を健全化しようと考えます。具体的には信教の自由の観点からユダヤ教を議会入りさせることを禁止する法律に反対します。

 

イギリスが世界中に抱える植民地への見方もグラッドストンの中で変化が生じます。植民地を強硬に支配することに反対し、植民地の自治を推進することで本国からの出費を削減しようという考えを持つようになるのです。このように大英帝国を緩やかな繋がりへと変える動きを小英国主義と言います。